なぎなたの歴史について


目    次

  • 歴史的背景
  • 会津のなぎなた
  • スポーツとしてのなぎなた
  • 会津なぎなたスポーツ少年団

・歴史的背景

日本では武蔵坊弁慶の武器、中国では三国志の関羽などが使っている武器で有名です。

漫画ワンピースの白ひげもそうですね。

サマーウォーズの栄おばあちゃんも振り回してました。

平安時代、名乗りを上げて一騎打ちすることが多かった時代には

距離も威力もある長刀(ながなた)は1対1では有利だったのです。

次第に呼び名は薙刀(なぎなた)になり、戦後にはスポーツとしての

「なぎなた」に変わりました。

鎌倉時代以降、戦い方は”武士の一騎打ち”から

”集団での戦い”に変わっていきます。

広い野原で太鼓打ち鳴らしながら東軍・西軍が

「うわああああ」って突っ込んでいくアレ。

歩兵が持っている武器を見てみると「槍(やり)」になっています。

突きに特化したので、兵の修練度も低くて良いし

兵の塊として突っ込むには槍の方が良かったんですね。

 

 

国内の戦乱が落ち着くと、剣術や弓術は精神を鍛える武道として

形を変えていきます。薙刀術は、そのリーチと薙ぎ払う動きから

女性が扱っても十分に威力を発揮できる武器でした。

日本では女性が嗜む武道として発展し、戦後には国内外に

なぎなた連盟が発足しました。

 

もちろん、鶴ヶ城がある会津にも「会津なぎなた連盟」があり

日々、小学生から大人まで汗を流しています。


・会津のなぎなた

戊辰戦争では会津藩の女性も活躍しました。街中には

繰り返してはいけない悲劇の歴史が残されています。

八重の桜でも出てきました、中野竹子が有名ですね。

娘子隊を率いて、戦死した仲間や藩のために戦い

最後は銃に打たれ死去。

辞世の句と共に会津坂下町にお墓があります。

 

「時代は鉄砲戦である」と解っていた新島八重と

なぎなたで挑み、鉄砲に散った中野竹子とのコントラストに

なんともいえない無情さを感じます。


毎年秋に開催される会津まつりでは、会津藩士の鎮魂を意した会津藩公行列があります。

毎年、様々な方がそれぞれの役を担うのですが、中野竹子役として会津でなぎなたをやっている高校生が

選ばれることもあります。

 

会津なぎなたスポーツ少年団としても参列し、様々な場所で演技競技というものを披露しています。

 

ぜひ会津まつりの藩公行列を見に来てみてください^^


・スポーツとしてのなぎなた

前述のとおり、武道として女性を中心に発展したなぎなたは

敗戦後からしばらくして、スポーツ競技として復活すべく多くの方が尽力。

 

昭和30年 全日本薙刀連盟が発足。

昭和33年 「なぎなた」表記になる。

昭和34年 中学校以上の女子クラブ活動としてなぎなたが適用される。

選手の年齢・大会規模を拡大しながら、様々な大会や研修会を重ねる。

平成2年 国際なぎなた連盟が発足。

平成6年 男子なぎなたの普及が始まる。

平成28年 なぎなた部活を舞台にした漫画「あさひなぐ」が映画化し、なぎなた人口増の期待に胸を膨らませる。

 


・会津なぎなたスポーツ少年団

会津藩の流れを組み、大正時代の会津高等女学校(現:葵高校)でも

竹棒を使った対人戦闘術の授業を行っていたようです。

「本当に人ひとりをあ〇めるつもりで、稽古したもんじゃ!」(90代祖母談)

 

福島国体が開かれる平成7年に向けて、会津でもなぎなた連盟を発足。

それでも、現在のスポーツなぎなたと明治や大正当時の薙刀は別物であり

様々な試行錯誤と普及活動の末、会津でもスポーツなぎなたが根付いてきました。

 

まだまだ競技人口が少なく、指導者も限られてしまうため

学校の部活が独自で練習するのには限界があります。

そのため、会津なぎなたスポーツ少年団では、小学生に留まらず

中高生も含めた合同練習をすることがよくあります。

 

中学部活、高校部活でなぎなたを始めた子も、連盟に所属して

土日は同じ環境で練習をします。

県内でも会津のみのスポーツであるため、団体が一丸となって

会津のなぎなたを全国大会で試してきます。

 

「小学生の部は〇位で、中学生は演技優勝したよ!」なんていう

学年・学校を跨いだ報告があるのも、なぎなたスポ少の特徴かもしれません。

 

2021年現在、部活動がある中高校は以下の通りとなります。

会津学鳳高校・ザベリオ学園高校・葵高校・会津高校

会津学鳳中・若松一中・若松二中・若松四中・ザベリオ中